私たちが受け継ぐ、
創業者の精神。

イノチオグループは創業者である石黒利平の精神、考察力、人生観、事業感などを鏡として、
常に自らを見つめ直し行動しています。石黒利平はこれ以上ないと言われるほどの貧しい家庭に生まれながらも、
「自分のいのちは、世のため、他のためにあるとしか思えない」という強い信念に従って世に尽くした人物です。
そんな石黒利平の人生の一片を紹介します。
八木日出雄著「石黒利平先生 美しい心、美しい夢、大きな志」(昭和50年)より抜粋
二、立志と奮斗
(前略)市民病院につとめるようになってから、薬剤師の資格をとろうと決意されました。それからの勉強ぶりは誠にめざましいものでした。火のついたようにとか命がけの勉強と言いますが、全くその言葉通りでありました。
例えば勤めになれると、三日か四日に一度、泊まり番(宿直)をやらされますが、宿直の夜などは、一晩中、少しも寝ないで、一生懸命に勉強されたとのことです。余談になりますが、当時市民病院の老看護婦さんが、その様子を見て、石黒さんが可哀想だ。あんなにやれば死んでしまう。何とかしてあげたいといった話しを行ったらしい。
今でも先生は、やせた、きゃしゃなお身体です。当時、やっと生命をつないでいけるだけの、栄養も何もない食生活時代の、いたいたしいお姿は推察するに余りがあります。入院患者までも、看護婦さんの話を聞いて、大いに同情を寄せ、お見舞いにもらった品々を、誰かれとなくとなくそっと届けてくれる。飲んだこともない高価な当時は薬のように尊い牛乳までも泊まりの朝はかならず一本部屋においてくれる。(中略)こうした温かい人々の情けに、多感な青年時代の石黒先生は、どんなに励まされ、更に奮起されたことでしょう。
藤本理という薬学士の開かれた夜の講習会に通ったり、あちこちの塾に行ったりしながら、こうして五年間、血みどろの努力が続けられました。その頃薬剤師の学説試験はむずかしく、十人に一人位の割でしか合格いたしません。がその時は五十七人中、六人合格したそうですが、もちろん先生も見事六人の中に入って、一回で合格の栄冠を得られました。(後略)
三、研究と功績
大正三年第一次世界大戦が始まりました。日本も連合国に加盟して、ドイツを敵として戦うことになりました。国交がとだえ、輸入がなくなってみて、日本で使っている大切な立派な医薬品が日本では何一つできないで、ほとんどドイツを始め外国で造ったものであることを知らされたのです。(中略)その時、石黒先生も「これは大変なことだ。自分はまことにつまらぬ、学歴もなく、とるに足りぬ人間で、田舎病院の一薬局長にすぎないが、いやしくも薬学をもって世に立っている以上、いくぶんでも国民の医療衛生のためにお役にたたなくてはならない。」と大いに奮起され。薬局長としての勤めを立派にはたしつつも、一方余力をもって研究に没頭され、苦心さんたんの末、見事タンニン酸の製造に成功されました。
大正六年六月に九年七ヶ月勤務した田原病院を退職され、過マンガン酸カリを造る研究にうちこむことにいたされました。渡病院長さんは、薬局長として病院に勤務しながら研究をするようにしきりにすすめられたそうです。しかし、石黒先生は、その時は奥さんに、数年前より小さな薬局店の経営に当たらせ、夫婦二人だけならばどうやら、食べて行けるだけになったので、院長さんの思いやり深い慰留に心から感謝しながらも、勤めながら店を持ったり、研究したりすることを心苦しく思われて、良心の命ずるままに結局退職して、研究に専念されることになりました。それは先生が三十五歳のときであります。勤めのなくなった身、心おきなく研究に打ち込むことが出来ます。毎日毎日研究のために煮たり、焼いたりと、簡単にその時の様子をのべられますが、研究に夜を日につぐこと一年余。日本ではとうてい出来ないといわれ、輸入のみ仰いでいた過マンガン酸カリの製造に成功いたしたのです。田原町と東京の東中野と名古屋の中央化学の三カ所の工場で製造を開始いたし、製品は東京の友田商会の手を経て国内はもとより遠く英国にまで輸出をし、消毒薬業界に大きな貢献を果たすことになりました。(中略)
更に昭和二年に桑畑の強敵であるカイガラ虫を殺すための硫黄合剤の製法も発明し、これを商品化することに成功し、養蚕業界に画期的な振興を与えたり、又、麦類の増産にも甚大な貢献をされたのであります。
次に昭和十二年支那事変の起る前後から硫酸ニコチンという農薬が欧米からこなくなってしまいました。この薬は農家の特に蜜柑を作っている人にとってはどうしても必要な害虫防除の消毒薬であります。(中略)未知の世界、前人未踏の道を切り開いて進もうとする者の受ける宿命ともいうべき周囲の人々や同業の人達から、がらにもなくとか、身の程も知らずとか、といった冷笑にいささかも屈せず、あらゆる努力を払い、工夫を重ねて二年余の悪戦苦闘の研究が続けられました。文字通り寝食を忘れての努力の甲斐が報いられ、ついに石黒式による製造法すなわちクズ煙草から硫酸ニコチンを製造する方法に成功されたのであります。(中略)先の過マンガン酸カリとこの硫酸ニコチンの製造法は、石黒先生の二大発明、特筆大書されるべきもので、国家産業のために利益となったことは甚大で、ことばにつくせません。(後略)